INTERACTIVE BATTLE

大坂夏の陣

慶長20年(元和元年、1615)5月 · 摂津国大坂城・河内国道明寺・八尾・若江周辺

堀を失った大坂城を出て徳川方を迎え撃った豊臣方と、徳川方諸隊が河内で衝突した合戦。5月6日、道明寺・玉手山で後藤基次が、八尾・若江で木村重成がそれぞれ戦死し、5月8日に大坂城は落城して秀頼・淀殿が自害し、豊臣宗家は滅亡した。

背景

冬の陣の和睦で二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てが行われた大坂城は、籠城による防御が困難になっていた。豊臣方は4月25日に始まった夏の陣で城外に出て徳川方を迎え撃つ方針をとり、大和路・河内路を進む徳川方に対して各地で部隊を分けて対応した。

結末

5月6日、後藤基次隊が道明寺・玉手山で徳川方諸隊に包囲されて基次が戦死し、同日、若江・八尾方面でも木村重成・長宗我部盛親の部隊が徳川方と交戦して重成が戦死した。大坂城は炎上し、5月8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣宗家は滅亡した。

戦況年表

1 5月6日

道明寺・玉手山の戦い

後藤基次(又兵衛)ら約2800が平野を出陣したが、濃霧のため合流予定だった部隊が遅れ、基次隊は単独で玉手山(小松山)に進出した。徳川方の水野勝成隊・本多忠政隊・松平忠明隊・伊達政宗隊(合わせて約23000)に三方から包囲され、約6時間の激戦の末、基次は討ち死にした。

伊達政宗

片倉重綱の部隊とともに道明寺方面の徳川方連合に加わる

出典25·確実度:高

2 5月6日

八尾・若江の戦い

若江に着陣した木村重成が徳川方を迎え撃ったが戦死した。八尾方面では藤堂家本隊が常光寺・久宝寺寺内町の辺りで長宗我部盛親の軍と交戦し、藤堂高刑・藤堂良勝・山口重信らが戦死した。

論点

八尾・若江の戦いの正確な日付は八尾市の資料自体には明記がなく、同日に起きた道明寺の戦いと合わせて5月6日とされることが多い。

長宗我部盛親

八尾で藤堂家本隊と交戦

出典4·確実度:高

3 5月8日

大坂城落城

大坂城が炎上する中、秀頼・淀殿が自害し、豊臣宗家は滅亡した。

豊臣秀頼

大坂城落城時に自害

出典16·確実度:高

歴史的な位置づけ

関ヶ原の戦いから15年を経て豊臣家は大坂城とともに滅び、徳川将軍家による支配が確立した。以後、幕府は一国一城令など江戸時代の統治の枠組みを整えていく。

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主な関係人物

徳川方

3名

徳川家康

徳川方総大将

大坂夏の陣全体を指揮した徳川方の総大将

出典1·確実度:高


伊達政宗

道明寺方面の徳川方部隊の主将

片倉重綱の指揮する部隊とともに片山に布陣し、後藤基次隊を包囲する徳川方連合に加わった

出典2·確実度:中


藤堂高虎

道明寺方面の徳川方部隊

河内千塚に布陣した

出典2·確実度:高

豊臣氏

2名

長宗我部盛親

八尾方面の豊臣方部隊

八尾の常光寺・久宝寺寺内町の辺りで藤堂家本隊と交戦した

出典4·確実度:高


豊臣秀頼

豊臣家当主

大坂城落城時に淀殿とともに自害した

出典1·確実度:高

1615年の他のできごと

データ上の注意

天王寺・岡山方面の戦闘(5月7日)や誉田方面の戦闘、秀頼・淀殿の自刃地点(伝承では山里丸)は、本調査で確認できた公的機関・博物館・自治体の資料からは裏付けが得られなかったため、局面・地点には含めていない。

参照した資料

  1. 国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣」
  2. 柏原市「玉手山と大坂夏の陣」
  3. 藤井寺市「コース(2) 大坂夏の陣道明寺合戦コース」
  4. 八尾市「三一巻 続・河内名所図会を訪ねて(3) 大坂夏の陣と八尾」
  5. 大阪歴史博物館「大坂の陣 激戦地を歩く」
  6. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1615年の勢力図を見る
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