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豊臣秀頼の家紋

豊臣家 当主

豊臣秀頼

1593年〜1615年

豊臣秀頼は、豊臣秀吉と側室淀(茶々)の子として1593年に生まれ、秀吉の死後に幼くして豊臣家を継いだ人物である。それまで後継者だった甥の豊臣秀次は、秀頼誕生後の1595年に高野山で切腹しており、秀頼の誕生は豊臣家の継承構想を成人の関白中心から幼主中心へ転換させた。1598年の秀吉死去後は、大坂城の母淀や女房・乳母、後見の片桐且元ら旧臣、五大老・五奉行の合議に支えられたが、自ら政権を運営できる年齢ではなかった。1603年には徳川家康の孫千姫と婚礼を挙げて徳川・豊臣の関係を結び直したが、1614〜15年の大坂の陣で徳川方と戦い、1615年5月の大坂城落城により淀とともに死去し、豊臣宗家は滅亡した。

出典 国立公文書館「慶長・元和の文化」/大和郡山市「片桐且元」/国立公文書館「千姫の輿入れ」/国立公文書館「方広寺鐘銘事件」/大阪市「大坂の陣400年資料」

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関連する出来事

6件

1593年

8月3日

豊臣秀頼誕生

誕生
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大坂城で豊臣秀吉の子・拾(のちの秀頼)が誕生し、豊臣家の後継をめぐる政治状況が変化した。

1611年

3月28日

徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見

徳川家康と会見
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徳川家康が十九歳の豊臣秀頼を二条城へ招き、両者が会見した。秀頼が家康へ礼をする形となり、徳川政権と豊臣家の政治的関係が示された。

1614年

11月

大坂冬の陣始まる

大坂方の主君
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徳川方の大軍が大坂城を包囲し、豊臣方は真田信繁が築いた真田丸などを拠点に籠城戦を展開した。

12月19日

大坂冬の陣和睦

豊臣方
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徳川方と豊臣方の間で和睦が成立し、誓詞交換へ進んだが、対立は解消せず翌年の夏の陣へ続いた。

1615年

5月

大坂夏の陣

豊臣家当主
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堀を失った大坂城を出て徳川方を迎え撃った豊臣方と、徳川方諸隊が河内で衝突した合戦。5月6日、道明寺・玉手山で後藤基次が、八尾・若江で木村重成がそれぞれ戦死し、5月8日に大坂城は落城して秀頼・淀殿が自害し、豊臣宗家は滅亡した。

5月8日

大坂城落城と豊臣氏滅亡

大坂城で自害・豊臣氏滅亡
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大坂城が落城し、豊臣秀頼と淀殿が自害して豊臣宗家が滅亡した。

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