INTERACTIVE BATTLE

大坂冬の陣

慶長19年(1614)11月〜12月 · 摂津国大坂城

方広寺鐘銘事件を機に徳川家康が諸大名へ出陣を命じ、20万人規模と伝わる徳川方が大坂城を包囲した合戦。真田信繁が築いた出丸・真田丸で徳川方を撃退したが、12月19日に和睦し、惣構を含む堀は翌年の夏の陣までに埋め立てられた。

背景

1600年の関ヶ原の戦い後も豊臣秀頼・淀殿は大坂城と旧豊臣領を保持し、徳川家は将軍職世襲や大名配置を進めていた。慶長19年(1614)、秀頼が再建した方広寺の梵鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」の解釈をめぐり片桐且元の交渉が破綻し、家康は9月から10月にかけて諸大名に大坂出陣を命じた。

結末

11月半ば過ぎに徳川方が大坂城を包囲したが、真田信繁が守る真田丸を12月4日に攻めきれず撃退された。12月19日に和睦が成立し、二の丸・三の丸の破却と惣構を含む堀の埋め立てが行われ、大坂城の防御は大きく損なわれた。

戦況年表

1 11月半ば過ぎ

大坂城包囲

20万人規模と伝わる徳川方が大坂城を取り囲み、大坂冬の陣が始まった。

徳川家康

20万人規模の包囲軍を率いる

徳川秀忠

家康とともに包囲軍に加わる

出典26·確実度:高

2 12月4日

真田丸の戦い

真田信繁(幸村)が大坂城の南に築いた出丸・真田丸に徳川方が攻めかかったが、信繁はこれを撃退した。

論点

真田丸攻撃側の具体的部隊(前田利常・井伊直孝・松平忠直など)は商業系の歴史サイトで言及されるが、本ノートで確認した公的機関・博物館・自治体の資料には部隊名までの記載がなく、保留している。

真田信繁

真田丸を築いて守り、徳川方を撃退

出典234·確実度:高

3 12月19日

和睦成立

徳川方・豊臣方の交渉により大坂冬の陣の和睦が成立した。

出典26·確実度:高

4 冬の陣後〜翌年夏の陣までの間

惣構・堀の埋め立て

和睦にもとづき大坂城の二の丸・三の丸が破却され、惣構を含む堀が埋め立てられた。発掘調査では堀が短期間で一気に埋め戻されたことが確認され、埋め立て土中からは刀傷を負った人骨なども見つかっている。

論点

埋め立ての実施主体(二の丸・堀埋めは豊臣方、三の丸・外堀埋めは徳川方が担ったとする説)は専門家記事で紹介されるが、本調査では公的機関・博物館・自治体の一次資料での確認に至らず、諸説として扱う。

出典56·確実度:高

歴史的な位置づけ

堀を失った大坂城は籠城による防御が難しくなり、翌年の大坂夏の陣で豊臣方が城外での決戦を選ぶ一因となった。

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主な関係人物

徳川方

2名

徳川家康

徳川方総大将

20万人規模と伝わる包囲軍を率いた

出典2·確実度:高


徳川秀忠

徳川方の大将

家康とともに大坂城包囲に加わった

出典2·確実度:中

豊臣氏

1名

真田信繁

出丸・真田丸の守将

真田丸を築いて徳川方の攻撃を撃退した

出典24·確実度:高

データ上の注意

真田丸の正確な範囲・形状は2016年の発掘調査でも確定しておらず、地図上の点は天王寺区餌差町・大阪明星学園付近の比定地である。堀埋め立ての実施主体(二の丸・堀埋めは豊臣方、三の丸・外堀埋めは徳川方が担ったとする説)は諸説あり、本文では特定しない。

参照した資料

  1. 国立公文書館「方広寺鐘銘事件」
  2. 国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣」
  3. 大阪歴史博物館「大坂の陣 激戦地を歩く」
  4. 大阪市天王寺区「大坂の陣最大の激戦地 真田幸村と真田丸」
  5. 大阪城天守閣「大手前で見つかった豊臣時代の堀」
  6. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1614年の勢力図を見る
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