武将一覧へ戻る
藤堂高虎の家紋

伊勢津藩祖・築城の奉行

藤堂高虎

1556年〜1630年

藤堂高虎は、近江に生まれて浅井氏・磯野員昌などに仕えた後、1576年に羽柴(豊臣)秀長に仕官し、紀州征伐や三木城攻めの戦功で加増を重ねた武将である。1585年には秀長の和歌山城で築城奉行を務め、秀長・秀保の死後は秀吉の直臣となって伊予宇和郡7万石を与えられ、1596年から宇和島城を築いた。慶長の役では水軍を率いて漆川梁で朝鮮水軍を破り、関ヶ原の戦いでは東軍について伊予今治20万石を得て今治城を築いた。1608年に伊勢・伊賀へ転封されて津城・伊賀上野城を大改修し、江戸城修築や大坂城再建の縄張りにも関わるなど、徳川政権の天下普請を通じて重用された。津藩32万石余の礎を築き、1630年に江戸で死去した。

出典 津市「藤堂高虎 略年譜」/津市「津藩祖 藤堂高虎」/宇和島市「国指定 宇和島城」/愛媛県総合教育センター「データベース『えひめの記憶』」/文化庁「文化遺産オンライン:上野城跡」

広告


関連する出来事

12件

1585年

和歌山城の築城と城代配置

参戦・関係
地図で見る

秀吉の命で紀州平定後、秀長が和歌山城を虎伏山に築かせた。築城奉行は藤堂高虎、完成後の城代は秀長の家臣桑山重晴が務め、紀伊統治の実務を担った。

藤堂高虎が紀州征伐に従い築城奉行となる

当事者
地図で見る

秀長に従って紀州征伐に加わり、戦功により5,400石加増の1万石となって大名格に達した。同年、秀長が紀伊国主として和歌山城を築くにあたり、高虎はその築城奉行を務めた。

1595年

藤堂高虎が秀吉直臣となり伊予を領す

当事者
地図で見る

秀保の死によって主家が絶えたため高野山に入ったが、秀吉に請われて出仕し、5万石加増の伊予宇和島7万石を拝領して秀吉の直臣となった。

1596年

藤堂高虎が宇和島城の築城に着手

当事者
地図で見る

文禄4年に領主となった板島丸串城を本城と定め、翌慶長元年から本格的な築城工事を始めた。

1598年

藤堂高虎が慶長の役の戦功で大洲を加増

当事者
地図で見る

脇坂安治とともに巨済島沖の敵船を破る水軍戦功により、伊予大洲で1万石加増されて8万石となった。

1600年

10月

藤堂高虎が関ヶ原で東軍に属し今治を領す

当事者
地図で見る

関ヶ原の戦いで東軍に属して戦い、その戦功により12万石加増の20万石に達し、伊予国今治に封じられた。

10月21日

関ヶ原の戦い

大谷隊と戦う
この合戦を詳しく見る →

美濃関ヶ原で東西両軍が激突。徳川家康率いる東軍が大勝。

1601年

藤堂高虎が宇和島城を完成させる

当事者
地図で見る

高虎が主導した宇和島城が慶長6年に完成した。これが大名として初めての近世城郭となった。

1606年

藤堂高虎が江戸城天守設計に当たる

当事者
地図で見る

江戸城修築において高虎は天守閣の設計、二の丸・三の丸の増築に携わり、この功により2万石加増された。

1608年

10月

藤堂高虎が伊勢・伊賀へ転封される

当事者
地図で見る

徳川家康の命により、高虎は伊予今治から伊勢国・伊賀国に転封されて計22万石余を領し、9月に伊賀上野、10月に津へ入城した。

1615年

5月

大坂夏の陣

道明寺方面の徳川方部隊
この合戦を詳しく見る →

堀を失った大坂城を出て徳川方を迎え撃った豊臣方と、徳川方諸隊が河内で衝突した合戦。5月6日、道明寺・玉手山で後藤基次が、八尾・若江で木村重成がそれぞれ戦死し、5月8日に大坂城は落城して秀頼・淀殿が自害し、豊臣宗家は滅亡した。

5月6日

大坂夏の陣、道明寺と八尾・若江で激突

徳川方・八尾で長宗我部勢と交戦
地図で見る

河内の道明寺・玉手山で後藤基次が、八尾・若江で木村重成・長宗我部盛親が徳川方と交戦し、基次と重成が戦死した。

広告