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毛利元就の家紋

毛利氏 当主

毛利元就

1497年〜1571年

安芸国の国人・毛利弘元の子として1497年に生まれ、1516年に兄・興元、1523年に甥・幸松丸が相次いで没したことで毛利家の家督を継いだ。当初は尼子・大内両氏の間で勢力を伸ばし、1540〜41年の郡山合戦で尼子軍を撃退、1554年には大内氏の実権を握る陶晴賢と断交して折敷畑の戦いを制した。次男・吉川元春、三男・小早川隆景をそれぞれ吉川氏・小早川氏の養子として送り込み「毛利両川体制」を築き、1557年には三兄弟の結束を説く「三子教訓状」を与えた。1566年に月山富田城を落として尼子氏を滅ぼし、中国地方のほぼ全域を支配する大名となり、1571年に郡山城で没した。

出典 広島県「戦国大名とひろしま~毛利元就~」/安芸高田市「広報あきたかた」令和3年12月号/廿日市市「廿日市市文化財保存活用地域計画 資料編」/三原市「小早川隆景」/北広島町「吉川氏城館跡とは」/毛利博物館「三子教訓状」/島根県公式観光情報サイト「月山富田城跡」

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関連する出来事

17件

1517年

有田中井手の戦い

毛利・吉川方を指揮
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毛利・吉川方は有田中井手で武田元繁方を破り、元繁を討ち取った。安芸の勢力関係を変える毛利氏初期の重要な勝利となった。

1523年

8月

毛利家の家督相続

当事者
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甥・幸松丸の死去を受け、毛利元就は重臣らの要請を得て家督を相続。郡山城主となり、以後の勢力拡大の基礎を確立した。

1525年

毛利元就が大内氏方へ転じる

尼子方から大内方へ転属
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毛利元就は尼子氏方から大内氏方へ転じ、以後は大内陣営の安芸・備後両国における軍事指揮官として活動した。

1529年

毛利元就が高橋氏を滅ぼす

高橋氏攻略を主導
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毛利元就は大内軍と備後の和智氏・安芸の宍戸氏の援軍を得て尼子方の高橋氏を滅ぼし、安芸・備後・石見の国衆連合で主導的地位を築いた。

1540年

9月

吉田郡山城の戦い

吉田郡山城主・籠城軍を指揮
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尼子晴久が吉田郡山城を攻めたが、毛利元就は大内氏の援軍を得て防衛に成功した。

1546年

毛利隆元が家督を継承

関係人物
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毛利元就が長男・隆元に家督を譲った。元就は家督を譲った後も軍事・外交の実権を握り続けた。

1550年

毛利両川体制の確立

当事者
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毛利元就が次男・元春を吉川氏へ、三男・隆景を沼田小早川氏へ養子として送り込み、瀬戸内海の水軍統率と山陰方面の備えを担わせた。

1554年

6月

折敷畑の戦い

当事者
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陶氏と決別した毛利元就が、陶方の宮川甲斐守を折敷畑で破った。この勝利が翌1555年の厳島の戦いへ続く。

1555年

10月

厳島の戦い

毛利軍総大将・奇襲を指揮
この合戦を詳しく見る →

毛利元就が厳島へ渡海して陶晴賢の本陣を突き、これを破った。大内氏の実権は崩れ、毛利氏が中国地方で台頭する。

1557年

5月

防長平定

大内氏旧領の攻略を主導
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毛利元就が防長へ進出し、大内氏の旧領である周防・長門を掌握した。

5月1日

防長経略と大内氏の滅亡

毛利軍総大将
この合戦を詳しく見る →

厳島の勝利のあと、毛利元就が周防・長門へ攻め入り、山口を落として大内義長を長門へ追った。義長は長福寺で自刃し、大内氏は滅びた。

11月25日

三子教訓状

当事者
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毛利元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景へ向けて14か条の教訓状を書き与えた。三兄弟の結束を説いた文書。

1560年

2月

石見銀山の掌握強化

石見銀山掌握
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毛利元就が石見銀山の支配を固め、財政基盤を一層強化する。

10月

毛利氏の中国支配拡大

尼子残党攻撃
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毛利元就が山陰の尼子残党勢力を攻撃し、勢力圏を拡大。

1563年

毛利隆元の急逝と輝元継承

関係人物
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出雲遠征途上で毛利隆元が急死し、孫の輝元が家督を継いだ。元就が輝元の後見となった。

1566年

月山富田城が開城

当事者
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毛利軍が尼子氏の本拠・月山富田城を長期の兵糧攻めで追い詰め、尼子義久が降伏して開城。毛利氏が出雲・伯耆を支配下に置いた。

1571年

6月14日

毛利元就、75歳で病没

当事者
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毛利元就が郡山城で75歳で病没した。その後、孫の輝元が両叔父・吉川元春と小早川隆景に支えられて毛利家を継いだ。

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