INTERACTIVE BATTLE
1540年9月 · 吉田郡山城
尼子晴久が吉田郡山城を攻めたが、毛利元就は大内氏の援軍を得て防衛に成功した。
毛利元就は1525年に大内方へ転じ、1529年には尼子方の高橋氏を安芸・石見の国人衆とともに滅ぼし、その主導的地位を継承していた。勢力を伸ばす毛利氏に対し、天文9年(1540)、出雲の尼子詮久(晴久)が大軍を率いて安芸へ侵攻し、郡山城から約4kmの風越山に本陣を置いた。
尼子軍は郡山城を見下ろす青山城・光井山城に本陣を移し、4か月かけて包囲の陣城群を築いたが、元就は籠城しつつ尼子軍の補給路を断って対抗した。天文10年(1541)1月13日、大内義隆の援軍を率いる陶隆房が光井山を攻め、尼子詮久の大叔父・久幸が討死する激戦の末、尼子軍は総崩れとなって出雲へ撤退した。

尼子詮久、風越山に着陣
安芸へ侵攻した尼子詮久(晴久)の大軍が、郡山城から直線で約4km、吉田周辺でも特に山深い最高所にある風越山を、当初の本陣とする陣城として築いた。
出典345·確実度:中
尼子軍、青山・光井山に陣城を築き郡山城を包囲
尼子軍は郡山城に対峙する形で、谷を挟んで隣り合う青山城・光井山城という一体の巨大な陣城を、4ヵ月間かけて築いた。
出典235·確実度:中
光井山の決戦、尼子軍撤退
大内氏の援軍を率いる陶隆房の軍が三塚山(光井山)を攻め、尼子詮久の大叔父・尼子久幸が討死するなど大激戦の末、尼子軍は総崩れとなって撤退した。
出典235·確実度:高
郡山城での勝利により、毛利氏は安芸国人衆の中心としての地位を確固たるものとした。同年5月には尼子氏に支えられていた安芸武田氏が滅亡し、毛利氏は広島湾付近にも勢力を広げていくことになる。
広告
データ上の注意
尼子軍の着陣日(9月4日)や兵力(3万など)、大内援軍の到着日(12月3日)・着陣地点(山田中山・住吉山)は民間の解説に見られるが、本調査で確認できた公的資料には記載がなく、本文には含めていない。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

広告