INTERACTIVE BATTLE
1546年4月 · 河越城周辺
北条氏康の援軍が河越城を包囲する上杉・古河公方連合軍を破り、扇谷上杉朝定は討死した。
1537年に北条氏綱が河越城を奪うと、扇谷上杉朝定は山内上杉氏・古河公方と連合して奪還を図った。河越は入間川流域と武蔵北部を押さえる要地であり、その帰属は関東の勢力均衡を左右した。氏康にとっては、父氏綱が築いた武蔵進出の前線を守れるかどうかがかかる局面だった。
河越城を包囲した上杉・足利連合軍を、氏康の来援軍と城内を守った北条方が破った。扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。山内上杉氏と古河公方も大きく後退した。

河越城が北条氏のものになる
北条氏綱が上杉朝興を攻めて江戸から河越城へ迫り、天文6年に河越城は小田原北条氏のものとなった。扇谷上杉氏は本拠を失い、以後この城を取り戻すことが上杉方の課題になる。
出典123·確実度:中
山内上杉・扇谷上杉・古河公方連合軍、河越城を包囲
北条氏康、後詰めとして出陣し対陣
半年以上にわたり河越城を包囲されていた北条方に対し、北条氏康が後詰めとして出陣し、城の近くまで進んで連合軍と対陣した。
出典1256·確実度:中
河越夜戦、北条氏康が連合軍を撃破
北条氏康が夜襲を仕掛けて連合軍を打ち破った。扇谷上杉朝定は戦死し、山内上杉憲政・足利晴氏は敗走した。
論点
夜襲の実態(奇襲だったか、和睦を装う策があったか)や両軍の兵数は記録により異なり、確定できていない。
出典12356·確実度:高
松山城が北条氏の手に落ちる
扇谷上杉朝定の戦死により当主家を失った扇谷上杉方の拠点・松山城が、北条氏康の手に落ちた。
出典128·確実度:中
従来の関東秩序を担ってきた有力勢力を押しのけ、北条氏が関東政治の中心的な競争者になった転機である。ただし房総の里見氏、越後の上杉謙信、甲斐の武田氏との抗争は残っており、これで北条氏が関東を統一したわけではない。
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データ上の注意
「河越夜戦」の通称で知られるが、川越市は夜戦だったかどうか自体を再検討している。兵数も記録ごとに大きく異なるため、少数の北条軍が大軍を奇策で破ったという定型的な英雄譚は事実として固定しない。本ページは「河越合戦」を基本名称とし、通称を併記する。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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