INTERACTIVE BATTLE

砥石城の戦い

1550年 · 砥石城(戸石城)

武田晴信は村上義清方の砥石城を攻めたが攻略できず、大きな損害を受けて退いた。

背景

松本平をほぼ制圧した武田晴信は、天文19年(1550)、村上義清方の最重要拠点・砥石城の攻略に乗り出した。7月に地元の地理に通じた真田幸隆を起用し、和田城を落として長窪に着陣、8月28日には砥石城近くの屋降に陣を進めた。

結末

9月9日から総攻撃を続けたが20日間で落とせず、10月1日の退却では村上軍の追撃を受け、殿軍を率いた横田高松ら多数が討死する「砥石崩れ」の大敗を喫した。翌天文20年(1551)5月26日、砥石城は武田方の真田幸隆の調略によって攻略された。

砥石城の戦い — 砥石城(戸石城)

戦況年表

1 1550年7月2日〜8月28日

武田晴信、砥石城攻めのため小県郡へ進軍

村上義清の最重要拠点・砥石城の攻略にかかった武田晴信は、真田幸隆に諏訪形ほかの地を宛行い、8月17日に和田城を落とし、19日に長窪へ着陣、28日に砥石城近くの屋降に陣を敷いた。

出典123·確実度:高

2 1550年9月3日〜9月30日

武田軍、砥石城を包囲・総攻撃

武田軍は本陣を砥石城近くの高台に進め、9月9日夕方から総攻撃を開始したが、20日間攻めても落とせず、23日に村上義清と高梨政頼が和睦したとの知らせが入り、30日の軍議で退陣が決まった。

出典123·確実度:高

3 1550年10月1日

退却時に村上軍の追撃を受ける(砥石崩れ)

退却を始めた武田軍を村上軍が直ちに追撃し、殿軍を率いた横田高松(備中守)をはじめ多くの将兵が討死した。主力はようやく佐久郡望月までたどり着いた。

論点

討死者数「千人」は後世編纂物『勝山記』の記述に基づく数字であり、実数として断定しない。

出典123·確実度:高

4 1551年5月26日

真田幸隆、調略により砥石城を攻略

前年40日をかけても落とせなかった砥石城を、武田氏配下の真田幸隆が謀計(調略)によって攻略した。幸隆はこれにより本拠地・真田を奪還した。

論点

調略の具体的な手段は明らかでなく、断定しない。

出典123·確実度:高

歴史的な位置づけ

晴信自身の攻略失敗と対照的に、真田幸隆は調略によって宿敵・村上義清を破り、旧領・真田を回復して武田配下としての地位を確立した。砥石城はのちに上田城が築かれるまで真田氏の居城となり、以後の真田氏発展の礎となった。

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主な関係人物

武田氏

2名

武田晴信

武田軍総大将

天文19年(1550)7月〜8月に小県郡へ進軍して砥石城を包囲・総攻撃したが攻略できず、10月1日の退却時に村上軍の追撃を受け大きな損害を出した(砥石崩れ)。

出典4·確実度:高


真田幸隆

武田方の案内役・調略役

天文19年(1550)の進軍時に道案内・調略にあたり、翌天文20年(1551)5月26日には自ら調略によって砥石城を攻略した。

出典4·確実度:高

村上氏

1名

村上義清

砥石城を擁する葛尾城主

武田晴信の砥石城攻めを退け、退却する武田軍を追撃した(砥石崩れ)

出典45·確実度:高

データ上の注意

退却時の討死者数「千人」は後世の編纂物『勝山記』に基づく記述であり、実数として断定していない。真田幸隆による調略の具体的な手段も出典自体が推測にとどめているため、本文には含めていない。

参照した資料

  1. 上田市「景観ウォッチング~砥石城の城下町、伊勢山を訪ねる~」
  2. 上田市「真田街道ガイド 上田市」
  3. 上田市(デジタルミュージアム)「紙本墨書生島足島神社文書 砥石城攻略」
  4. 上田市「紙本墨書生島足島神社文書 砥石城攻略」
  5. 坂城町「葛尾城跡と村上義清」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1550年の勢力図を見る
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