INTERACTIVE BATTLE
1584年3月〜11月 · 尾張国小牧・長久手周辺
羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が尾張で争った戦役。小牧山と楽田で長い対陣が続くなか、三河へ迂回した羽柴勢が長久手で徳川勢に討たれた。戦術では家康が勝ち、政略では秀吉が信雄と単独講和して目的を遂げた。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を退けた秀吉に対し、織田信雄は父の遺産を継ぐ立場から距離を置いた。信雄が親秀吉派の家老三名を誅殺したことで対立は表面化し、信雄は徳川家康と結んで秀吉に対抗する。
長久手では池田恒興・森長可が討たれて羽柴方が敗れたが、秀吉は戦線を伊勢へ広げて信雄に圧力をかけ、11月に信雄と単独で講和した。名分を失った家康も兵を引いた。

織田信雄が家老三名を誅殺する
池田恒興が犬山城を奪う
羽黒で森長可が敗れる
家康が小牧山に入る
秀吉が楽田に布陣し対陣が続く
羽柴勢が三河へ迂回する
膠着を破るため、池田恒興・森長可・羽柴秀次らが家康の本国三河を突く迂回作戦に出た。途上の岩崎城を攻めて時を費やしたことが、動きを家康に知らせる結果となる。
論点
迂回作戦を誰が発案し、秀吉がどこまで承知していたかには見解の幅がある。
三河中入りに向かう
出典1235·確実度:論争あり
長久手で羽柴勢が討たれる
蟹江城が奪われ、奪い返される
北陸では佐々成政が末森城を攻める
家康は秀吉に野戦で勝った数少ない大名として名を高めたが、政略では秀吉が上回った。翌年以降、家康は秀吉に臣従する道を選ぶことになる。
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データ上の注意
日付は西暦で表記する。1584年はグレゴリオ暦の施行後にあたるが、出典側は旧暦の日付を用いており、旧暦から西暦への換算が確定できたのは天正12年3月6日=1584年3月17日のみである。ほかの局面は月までの表記にとどめた。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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