
豊臣政権 五大老・加賀藩祖
生年不詳〜1599年
前田利家は、信長の家臣として越前一向一揆平定後の柴田勝家の北陸方面軍に加わり、賤ヶ岳の戦いを経て秀吉に従い、加賀・能登・越中を治めた武将である。1584年には秀吉方について、越中の佐々成政に攻められた能登末森城を救援し、この勝利が後の加賀百万石につながったとされる。1590年の小田原征伐では北国勢をとりまとめて出陣し、1592年の朝鮮出兵では秀吉とともに肥前名護屋に在陣して、七尾・金沢の金銀箔製造を命じるなど北陸の産業にも関わった。娘豪姫は秀吉の養女として宇喜多秀家に嫁ぎ、前田・宇喜多・豊臣の関係を結んだ。秀吉死去後は五大老の一人として幼い秀頼を支えたが、1599年に死去した。
出典 石川県立美術館「前田利家とその時代」/前田土佐守家資料館「歴代当主の紹介」/金沢市立安江金箔工芸館「金沢と金箔」/石川県「赤蔵山・末森城跡」/福井市立郷土歴史博物館「柴田勝家―北庄に掛けた夢とプライド」
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10件
1575年
8月
越前一向一揆の鎮圧
鎮圧後、府中三人衆として府中辺2郡を領有朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
1582年
1583年
6月11日
賤ヶ岳の戦い
勝家方から離脱織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
1584年
3月
小牧・長久手の戦い
羽柴方の将(北陸)羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が尾張で争った戦役。小牧山と楽田で長い対陣が続くなか、三河へ迂回した羽柴勢が長久手で徳川勢に討たれた。戦術では家康が勝ち、政略では秀吉が信雄と単独講和して目的を遂げた。
1588年
1590年
1598年
1599年
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