
織田家臣・越中国主
織田家に仕え、越中を支配した武将。1584年、小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康方に立ち、羽柴秀吉方についた前田利家の能登末森城を攻めたが、利家の反撃を受けて退けられた。翌1585年、秀吉自身が越中へ出兵すると成政は抗しきれずに降伏し、越中における独立した支配を失った。成政が保持していた城には前田利家の重臣・中川光重が入り、越中は前田氏の勢力下に組み込まれた。
出典 石川県「赤蔵山・末森城跡」/金沢大学「石川デジタルミュージアムネットワーク:末森城跡」/文化庁 文化遺産オンライン「増山城跡」/富山市「婦中安田城跡歴史の広場」
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5件
1575年
8月
越前一向一揆の鎮圧
鎮圧後、府中三人衆として府中辺2郡を領有朝倉氏滅亡後、越前国を実質的に治めていた一向一揆を、信長軍が木ノ芽峠・杉津口の二手から総攻撃して壊滅させた。鎮圧後、柴田勝家が越前8郡を、前田利家・佐々成政・不破光治(府中三人衆)が府中辺2郡を与えられた。
1582年
1583年
6月11日
賤ヶ岳の戦い
勝家方の将織田信長の後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の決戦。余呉湖をはさむ対陣が続くなか、佐久間盛政の奇襲を機に戦局が動き、勝家は本拠の北ノ庄城で自害した。
1584年
3月
小牧・長久手の戦い
羽柴方と敵対した越中の将羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が尾張で争った戦役。小牧山と楽田で長い対陣が続くなか、三河へ迂回した羽柴勢が長久手で徳川勢に討たれた。戦術では家康が勝ち、政略では秀吉が信雄と単独講和して目的を遂げた。
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