INTERACTIVE BATTLE

第一次川中島の戦い

1553年7月 · 川中島

武田晴信と長尾景虎が北信濃の支配をめぐって川中島で対峙した。

背景

村上義清の居城・葛尾城は信濃埴科郡にあり、南から攻める敵を想定して築かれていた。天文22年(1553)4月、武田晴信は千曲川右岸の往還道から北進し、支えの狐落城・荒砥城を落としたのち、内通による自落で葛尾城も失われた。当時、義清は塩田城にいた。

結末

塩田城にいた義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)から5千の援軍を得て葛尾城と旧領を一時奪還した(布施の戦い)。しかし同年8月、上杉軍が越後へ帰陣すると武田軍が再び葛尾城を攻め落とし、義清は塩田城を退いて越後へ亡命し、二度と坂城へ戻らなかった。

第一次川中島の戦い — 川中島

戦況年表

1 1553年4月

武田軍が北信濃へ侵攻、葛尾城が自落

武田晴信(信玄)の軍が千曲川右岸の往還道を北進し、支えの城であった狐落城・荒砥城を相次いで落とした。葛尾城でも、守将・滝沢能登守が城門から撃って出た隙に、武田方に内通していた重臣(氏名不明)の計略で城が自落した。当時、村上義清自身は塩田城にいた。

論点

葛尾城に内通した重臣の氏名は、確認できた資料に記載がなく特定できない。

出典345·確実度:中

2 1553年(月日不明)

布施の戦い――長尾景虎の来援と葛尾城奪還

塩田城にいた村上義清は、長尾景虎(上杉謙信)から5千の援軍を得て、葛尾城と旧領を一時奪還した。ながの観光netの記事はこの戦いを「布施の戦い」と呼ぶ。

論点

具体的な月日は確認できた資料からは特定できない。長尾景虎自身が出陣したか援軍のみを派遣したかについても、坂城町・ながの観光net・千曲市の公的資料は「援軍を得た」「加勢した」と記すのみで明記していない。

出典467·確実度:中

3 1553年8月

葛尾城が再落城、村上義清が越後へ亡命

上杉(長尾)軍が越後へ帰陣すると、武田軍が再び葛尾城を攻め落とした。村上義清は塩田城を撤退し、長尾景虎を頼って越後へ逃れた。義清が坂城へ戻ることはなく、越後で生涯を終えたと考えられている。

論点

義清が越後へ逃れた経路の詳細は、確認できた資料からは特定できない。

出典345·確実度:中

歴史的な位置づけ

村上義清の没落と越後亡命を機に、武田晴信と長尾景虎は北信濃の支配をめぐって初めて対峙することになった。以後、永禄7年(1564)まであしかけ12年・5回に及ぶ川中島の戦いが繰り広げられる、その発端となった。

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主な関係人物

武田氏

1名

武田晴信

武田軍総大将

北信濃へ侵攻し、支えの狐落城・荒砥城を落としたのち、内通により葛尾城を自落させた。同年8月には葛尾城を再攻略し、義清を越後へ追った。

出典4·確実度:高

村上氏

1名

村上義清

葛尾城主

侵攻時は塩田城におり、長尾景虎の援軍を得て葛尾城を一時奪還した(布施の戦い)が、8月に再び城を失い、塩田城を退いて越後へ亡命した。

出典3·確実度:高

上杉氏

1名

長尾景虎

義清に援軍を送った越後の将

村上義清の求めに応じ5千の援軍を派遣し、葛尾城と旧領の一時奪還を助けた(布施の戦い)。景虎自身が出陣したかは確認できた資料からは特定できない。

出典4·確実度:中

参照した資料

  1. 長野市「川中島古戦場史跡公園」
  2. ながの観光net「川中島の戦い 史跡ガイド」
  3. 坂城町「葛尾城跡と村上義清」
  4. ながの観光net「葛尾城跡」(岡澤先生の史跡解説)
  5. ながの観光net「葛尾城跡」
  6. 千曲市「城山史跡公園『荒砥城跡』」
  7. 国土地理院 住所・地名検索

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1553年の勢力図を見る
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