INTERACTIVE MARCH
1592年4月〜1593年7月 · 朝鮮半島
秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。
秀吉は九州平定後、対馬の宗義智に朝鮮との交渉を担わせ、肥前名護屋城を築いて全国の大名を集結させた。交渉が決裂すると、朝鮮を経て明を目指す構想のもとで出兵を命じた。
日本軍は漢城・平壌まで進んだが、李舜臣の水軍に補給路を断たれ、義兵と明の援軍に押し返された。1593年、日本軍は漢城を退いて南岸の倭城に拠り、講和交渉に入った。

釜山へ上陸する
忠州弾琴台の戦い
漢城に入る
平壌を占める
加藤清正が咸鏡道へ
閑山島の海戦
李舜臣が鶴翼の陣で日本水軍を包み、大勝した。補給の海路を断たれたことが、陸の進撃が止まる最大の理由になる。
鶴翼の陣で日本水軍を破る
出典5·確実度:中
平壌を失う
碧蹄館の戦い
漢城を退く
第二次晋州城の戦い
朝鮮・明を巻き込む国際戦争となり、九州諸大名の兵站・動員は豊臣政権に大きな負担を残した。決着のつかない講和は1597年の慶長の役の再出兵につながった。
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7名
3名
全羅左道水軍節度使
閑山島などで日本水軍を破り海路を断った
出典1234·確実度:中
全羅道巡察使
幸州山城で日本軍を退けた
出典1234·確実度:中
三道都巡辺使
忠州弾琴台で騎兵を率いて戦死した
出典1234·確実度:中
1名
提督
四万余を率いて平壌を奪回した
出典1234·確実度:中
データ上の注意
局面の座標は市郡の位置で、番地までは詰めていない。朝鮮半島の面は Natural Earth から起こした八道を使っている
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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