
豊臣政権 五大老・備前岡山城主
宇喜多秀家は、備前の大名宇喜多直家の子で、父の死後に若くして家督を継ぎ、豊臣秀吉のもとで岡山を本拠に成長した武将である。1588年、前田利家の娘で秀吉の養女でもある豪姫と婚姻し、1590年頃からは岡山城と旭川流域の城下・水運・街道を整備した。1592年の文禄の役では日本軍の総大将として扱われ、1597年の慶長の役にも出陣するなど、朝鮮出兵の中心的な立場を担った。四国征伐では宇喜多勢が讃岐に上陸するなど、備前にとどまらない広域戦にも動員された。秀吉死後は五大老の一人として幼い秀頼を支えたが、若い当主として家臣団と朝鮮出兵の負担を抱えたまま領国を維持する課題が残った。
出典 岡山市「宇喜多直家・秀家」/岡山市「宇喜多直家・秀家に関する参考資料」/岡山城公式「岡山城の歴史」/金沢旅物語「豪姫」
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5件
1585年
1592年
4月
文禄の役
在朝の総大将秀吉の命で16万の日本軍が釜山へ渡り、わずか20日で漢城、2か月で平壌に達した。だが李舜臣の水軍に海路を断たれ、各地の義兵と明の援軍に押し返される。1593年に漢城を退いて南岸の倭城へ引き、講和交渉に入った。
1597年
7月
慶長の役
左軍の大将講和が破れて再び渡海した日本軍は、漆川梁で朝鮮水軍を破り南原城を落として全羅道を押さえた。だが稷山で北上を止められ、復帰した李舜臣に鳴梁で敗れて南岸の倭城に釘付けとなる。1598年8月の秀吉の死を受けて撤退し、11月の露梁海戦で7年の戦役が終わった。
1600年
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