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毛利輝元の家紋

豊臣政権 五大老・中国地方の大名

毛利輝元

毛利輝元は、1563年に父隆元の急死を受けて祖父毛利元就の後見のもとで家督を継ぎ、1571年の元就死去後は叔父の吉川元春・小早川隆景の「毛利両川」に支えられて中国地方の大領国を統治した大名である。1582年の備中高松城をめぐる講和を経て豊臣秀吉に臣従し、1589年からは太田川河口に広島城の築城を始めて、中国地方九か国112万石の拠点を郡山城から移した。1592年に朝鮮出兵のため肥前名護屋へ向かう秀吉を広島城に迎えるなど、豊臣政権の全国動員に組み込まれた。秀吉死後は五大老の一人として幼い秀頼を支える立場になったが、巨大な一門・国衆・港湾圏を抱え、軍役と地域支配を両立させる課題を負った。

出典 広島市「史跡広島城跡保存活用計画」/広島県「戦国大名とひろしま~毛利元就~」/安芸高田市「広報あきたかた」令和3年12月号/岡山市「宇喜多氏と高松城水攻め」

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関連する出来事

9件

1563年

毛利隆元の急逝と輝元継承

当事者
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出雲遠征途上で毛利隆元が急死し、孫の輝元が家督を継いだ。元就が輝元の後見となった。

1570年

毛利氏の山陰方面防衛

月山富田城防備
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毛利輝元が山陰の要衝・月山富田城を中心に防備を固め、尼子残党や織田方勢力の進出を阻止。

尼子勝久の反攻

出雲で尼子方と対陣した毛利方
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還俗した尼子勝久を主将に、山中幸盛らが出雲へ侵攻し一時大半を制圧するが、帰国した毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍に布部山で大敗し、勢力を大きく後退させる。

1571年

6月14日

毛利元就、75歳で病没

関係人物
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毛利元就が郡山城で75歳で病没した。その後、孫の輝元が両叔父・吉川元春と小早川隆景に支えられて毛利家を継いだ。

毛利氏の西国防衛維持

中国地方防衛
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毛利輝元は中国地方で防衛線を維持し、尼子残党や織田方の西進に備えつつ、畿内の動揺を慎重に見極めた。

1573年

毛利氏の西国安定化

関係人物
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毛利輝元は織田方の西進をなお警戒しつつ、中国地方の防衛線を維持。将軍義昭との連携余地を残しながらも、畿内情勢急変により慎重姿勢を強めた。

1581年

10月

鳥取城の陥落

毛利方の救援を支えた当主
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羽柴秀吉が兵糧攻めにより鳥取城を陥落させ、因幡全域を掌握。毛利方の山陰拠点を失わせる。

1600年

10月21日

関ヶ原の戦い

西軍総大将
この合戦を詳しく見る →

美濃関ヶ原で東西両軍が激突。徳川家康率いる東軍が大勝。

1608年

萩城完成

築城主・長州藩主
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毛利輝元が関ヶ原合戦後の新たな本拠として築いた萩城が完成し、長州藩の政治拠点が整えられた。

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