INTERACTIVE BATTLE
1582年7月2日 · 山城国山崎・天王山周辺
本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。
本能寺の変で織田信長が討たれたとき、秀吉は備中高松城を水攻めで囲んでいた。毛利氏と講和を結び、清水宗治の切腹で開城させると、山陽道をひた走って畿内へ戻った。光秀は近江を押さえたものの、思うように味方が集まらなかった。
明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いて夜のうちに城を脱出した。坂本城を目指す途上で討たれたと伝わる。坂本城も囲まれ、明智秀満らが天守に火をかけて自害し、明智一族は滅びた。

秀吉が信長の死を知り、毛利氏と講和して清水宗治が切腹する
姫路城へ帰還する
備中高松を発った秀吉は山陽道を東へ進み、6月7日、姫路城へ入った。ここから畿内へ向かう構えを固めた。
論点
秀吉自身は信孝への披露状で「27里を一昼夜で駆けた」と誇示したが、一次史料を検討した研究は、実際には先遣隊が備中高松から3日、秀吉本人も3日がかりで姫路へ入ったとする。
中国大返しで姫路へ
出典10111213·確実度:中
尼崎に到着する
秀吉は姫路から明石を経て進み、6月11日辰の刻(午前7時〜9時ごろ)、摂津尼崎に着陣した。
論点
摂津衆との合流地点は、尼崎ではなく翌12日の富田だった可能性が高い(次の局面を参照)。
出典10111214·確実度:中
富田で摂津衆・信孝・長秀と合流する
山崎で両軍が対峙する
同じ6月12日、明智光秀は直属軍1万6千を天王山の東側に扇形に布陣した。天王山と淀川に挟まれた隘路が、兵の多寡にかかわらず展開の余地を狭めた。
論点
光秀の本陣跡について、大山崎町公式資料は境野1号墳(大山崎町)を「御坊塚」の推定地とし、長岡京市公式資料は恵解山古墳(長岡京市)を候補として挙げる。両者は約1.5km離れた別地点で、いずれか一方に確定する根拠は今回確認できていない。
山崎で秀吉軍と対峙
出典12310·確実度:論争あり
天王山東麓と淀川沿いで戦端が開く
6月13日申の刻(午後4時半ごろ)、隘路を越えて天王山東側へ進出した羽柴方先手の中川清秀・高山右近・羽柴秀長らに、明智方の斎藤利三・並河掃部・松田太郎左衛門らが猛攻をかけたが崩せなかった。その間に淀川沿いを進んだ池田恒興・加藤光泰・木村隼人らが円明寺川東側に上陸し、手薄だった明智方守備を突破した。
論点
「天王山を制した方が勝った」という通説を、大山崎町公式資料は「実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった」と明確に否定している。天王山山頂の争奪戦そのものが勝敗を決めたとする記述は、確認できた大山崎町・長岡京市の公的資料には見当たらない。
出典11016·確実度:論争あり
明智軍が崩れ、光秀が勝竜寺城へ退く
日暮れ後に明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いて最期の夜を過ごした。夜中のうちに城の北門から脱出し、近江坂本を目指したと伝わる。
論点
脱出の時刻・経路は長岡京市公式資料も「夜中のうちに」「伝わる」と留保付きで記す。坂本への帰路、光秀は落ち武者狩りに遭い落命したとされ(大津市公式資料は『兼見卿記』などを典拠に挙げる)、京都市の石碑解説は襲撃地を小栗栖とするが、自刃・介錯の細部は「という」「と伝えられる」との留保付きにとどまる。
勝竜寺城へ退き、坂本を目指す途上で落命したと伝わる
明智軍を支えきれず敗走
出典6101718·確実度:伝承
坂本城が落ち、明智一族が滅びる
秀吉方に包囲された坂本城で、明智秀満らは天守に火をかけて自害し、城は明智一族とともに滅びた。落城の日付は大津市公式資料の年表でも月までしか明記されていない。
論点
落城を「6月14日」とする紹介は多いが、大津市公式資料の年表は「1582年6月」とするのみで日にちを明記していない。光秀の妻子を秀満が手にかけたとする逸話も大津市公式資料には記載がなく、本文には採らない。秀満が馬で琵琶湖を渡って坂本城へ帰還したと伝わる「湖水渡り」についても、滋賀県文化財保護協会は「実際に秀満が馬に乗って琵琶湖を渡ったかは同時代史料から見出すことはできません」と明記しており、史実として断定できない。
坂本城で一族とともに果てる
出典61019·確実度:論争あり
信長の後継をめぐる主導権が秀吉に移る転機となった。なお「天王山を制した側が勝った」という語りは後世に整えられたもので、大山崎町の資料は実際の戦闘が天王山の東側で行われ、勝敗を決したのは淀川沿いの戦いだったとする。
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データ上の注意
日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。本ページの7月2日は旧暦の天正10年6月13日にあたる。出典側は旧暦、または グレゴリオ暦の遡及換算(同じ日を7月12日とする)を用いるものがあり、本サイトとは表記が10日ずれる。地図上の点は史跡および行軍を理解するための概略位置。光秀の本陣は境野1号墳とする説と恵解山古墳とする説があり確定しない。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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