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山崎の戦い

1582年7月2日 · 山城国山崎・天王山周辺

本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。

背景

本能寺の変で織田信長が討たれたとき、秀吉は備中高松城を水攻めで囲んでいた。毛利氏と講和を結び、清水宗治の切腹で開城させると、山陽道をひた走って畿内へ戻った。光秀は近江を押さえたものの、思うように味方が集まらなかった。

結末

明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いて夜のうちに城を脱出した。坂本城を目指す途上で討たれたと伝わる。坂本城も囲まれ、明智秀満らが天守に火をかけて自害し、明智一族は滅びた。

山崎の戦い — 山城国山崎・天王山周辺

戦況年表

1 6月23日

秀吉が信長の死を知り、毛利氏と講和して清水宗治が切腹する

備中高松城を水攻めで囲んでいた秀吉の陣に、京での信長横死の報せが届いた。秀吉は信長の死を秘したまま毛利方との講和を急ぎ、6月4日、城主・清水宗治が城兵の助命と引き換えに切腹して開城した。

論点

秀吉が信長の死を知った正確な日は一次史料の間でも割れており、旧暦6月3日説と6月4日説がある。ここでは講和成立と宗治切腹が確定している6月4日(西暦6月23日)を軸とし、秀吉が報せを受け取った日そのものは断定しない。

羽柴秀吉

高松城の陣で変を知る

黒田孝高

毛利氏との講和をまとめる

出典7810·確実度:論争あり

2 6月26日

姫路城へ帰還する

備中高松を発った秀吉は山陽道を東へ進み、6月7日、姫路城へ入った。ここから畿内へ向かう構えを固めた。

論点

秀吉自身は信孝への披露状で「27里を一昼夜で駆けた」と誇示したが、一次史料を検討した研究は、実際には先遣隊が備中高松から3日、秀吉本人も3日がかりで姫路へ入ったとする。

羽柴秀吉

中国大返しで姫路へ

出典10111213·確実度:中

3 6月30日

尼崎に到着する

秀吉は姫路から明石を経て進み、6月11日辰の刻(午前7時〜9時ごろ)、摂津尼崎に着陣した。

論点

摂津衆との合流地点は、尼崎ではなく翌12日の富田だった可能性が高い(次の局面を参照)。

出典10111214·確実度:中

4 7月1日

富田で摂津衆・信孝・長秀と合流する

6月12日、秀吉は摂津富田(現・大阪府高槻市)に至り、池田恒興・中川清秀・高山右近ら摂津衆、和泉から向かった織田信孝・丹羽長秀の軍が加わって、明智方の2倍以上となる総勢3万数千となった。

論点

富田での合流を裏付けるのは大山崎町公式資料と大学紀要で、尼崎市公式サイトや服部論文など中国大返し関連の資料には合流地点までの記載はない。

丹羽長秀

富田で秀吉と合流

織田信孝

名目上の主将として加わる

出典11015·確実度:中

5 7月1日

山崎で両軍が対峙する

同じ6月12日、明智光秀は直属軍1万6千を天王山の東側に扇形に布陣した。天王山と淀川に挟まれた隘路が、兵の多寡にかかわらず展開の余地を狭めた。

論点

光秀の本陣跡について、大山崎町公式資料は境野1号墳(大山崎町)を「御坊塚」の推定地とし、長岡京市公式資料は恵解山古墳(長岡京市)を候補として挙げる。両者は約1.5km離れた別地点で、いずれか一方に確定する根拠は今回確認できていない。

明智光秀

山崎で秀吉軍と対峙

出典12310·確実度:論争あり

6 7月2日

天王山東麓と淀川沿いで戦端が開く

6月13日申の刻(午後4時半ごろ)、隘路を越えて天王山東側へ進出した羽柴方先手の中川清秀・高山右近・羽柴秀長らに、明智方の斎藤利三・並河掃部・松田太郎左衛門らが猛攻をかけたが崩せなかった。その間に淀川沿いを進んだ池田恒興・加藤光泰・木村隼人らが円明寺川東側に上陸し、手薄だった明智方守備を突破した。

論点

「天王山を制した方が勝った」という通説を、大山崎町公式資料は「実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった」と明確に否定している。天王山山頂の争奪戦そのものが勝敗を決めたとする記述は、確認できた大山崎町・長岡京市の公的資料には見当たらない。

中川清秀

先鋒として前線に立つ

高山右近

先鋒として前線に立つ

池田恒興

円明寺川を渡り側面を突く

出典11016·確実度:論争あり

7 7月2日

明智軍が崩れ、光秀が勝竜寺城へ退く

日暮れ後に明智軍は崩れ、光秀は勝竜寺城へ退いて最期の夜を過ごした。夜中のうちに城の北門から脱出し、近江坂本を目指したと伝わる。

論点

脱出の時刻・経路は長岡京市公式資料も「夜中のうちに」「伝わる」と留保付きで記す。坂本への帰路、光秀は落ち武者狩りに遭い落命したとされ(大津市公式資料は『兼見卿記』などを典拠に挙げる)、京都市の石碑解説は襲撃地を小栗栖とするが、自刃・介錯の細部は「という」「と伝えられる」との留保付きにとどまる。

明智光秀

勝竜寺城へ退き、坂本を目指す途上で落命したと伝わる

斎藤利三

明智軍を支えきれず敗走

出典6101718·確実度:伝承

8 7月

坂本城が落ち、明智一族が滅びる

秀吉方に包囲された坂本城で、明智秀満らは天守に火をかけて自害し、城は明智一族とともに滅びた。落城の日付は大津市公式資料の年表でも月までしか明記されていない。

論点

落城を「6月14日」とする紹介は多いが、大津市公式資料の年表は「1582年6月」とするのみで日にちを明記していない。光秀の妻子を秀満が手にかけたとする逸話も大津市公式資料には記載がなく、本文には採らない。秀満が馬で琵琶湖を渡って坂本城へ帰還したと伝わる「湖水渡り」についても、滋賀県文化財保護協会は「実際に秀満が馬に乗って琵琶湖を渡ったかは同時代史料から見出すことはできません」と明記しており、史実として断定できない。

明智秀満

坂本城で一族とともに果てる

出典61019·確実度:論争あり

歴史的な位置づけ

信長の後継をめぐる主導権が秀吉に移る転機となった。なお「天王山を制した側が勝った」という語りは後世に整えられたもので、大山崎町の資料は実際の戦闘が天王山の東側で行われ、勝敗を決したのは淀川沿いの戦いだったとする。

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主な関係人物

羽柴氏

5名

羽柴秀吉

秀吉方総大将

備中から引き返し、11日で光秀を討った。

出典123456789·確実度:中


豊臣秀長

秀吉方の将

天王山方面を担った。のちの豊臣秀長。

出典123456789·確実度:中


黒田孝高

秀吉方の参謀

毛利氏との講和と大返しの段取りに関わったと伝わる。

出典123456789·確実度:中


中川清秀

秀吉方の先鋒

摂津衆として前線に立った。

出典123456789·確実度:中


高山右近

秀吉方の先鋒

摂津衆として前線に立った。

出典123456789·確実度:中

池田氏

1名

池田恒興

秀吉方の将

円明寺川を渡って明智方の側面を突いたと伝わる。

出典123456789·確実度:中

丹羽氏

1名

丹羽長秀

秀吉方の将

織田信孝とともに合流し、秀吉方の中核を成した。

出典123456789·確実度:中

織田氏

1名

織田信孝

織田家の名分

信長の子として軍の名目上の主将に立てられた。

出典123456789·確実度:中

明智氏

3名

明智光秀

明智方総大将

敗れて勝竜寺城へ退き、坂本へ向かう途中で落命したと伝わる。

出典123456789·確実度:中


斎藤利三

明智方の重臣

明智軍の中核を率いたが敗れ、のちに捕らえられた。

出典123456789·確実度:中


明智秀満

明智方の将

坂本城に拠って最期まで抗い、一族とともに果てた。

出典123456789·確実度:中

データ上の注意

日付は西暦(ユリウス暦)で表記する。本ページの7月2日は旧暦の天正10年6月13日にあたる。出典側は旧暦、または グレゴリオ暦の遡及換算(同じ日を7月12日とする)を用いるものがあり、本サイトとは表記が10日ずれる。地図上の点は史跡および行軍を理解するための概略位置。光秀の本陣は境野1号墳とする説と恵解山古墳とする説があり確定しない。

参照した資料

  1. 大山崎町「秀吉の道 陶板絵図」
  2. 大山崎町「山崎合戦の地を歩くコース」
  3. 長岡京市「京都防衛の要 勝龍寺城」
  4. 長岡京市「勝竜寺城公園」
  5. 京都市「京都のいしぶみデータベース HU008 明智薮」
  6. 大津市「坂本城跡リーフレット」
  7. 岡山県「備中高松城跡」
  8. 岡山市「図書館所蔵資料で見る高松城水攻」
  9. 九州大学学術情報リポジトリ 服部英雄「ほらの達人 秀吉・『中国大返し』考」
  10. 城郭マスタ(shiro.geojson)
  11. 九州大学学術情報リポジトリ
  12. 服部英雄「ほらの達人 秀吉・『中国大返し』考」
  13. 兵庫県立歴史博物館「姫路城年表」
  14. 尼崎市「豊かな歴史をもつ尼崎」
  15. 甲子園短期大学紀要No.16 小林章「茨木の戦国大名 中川清秀(II)」
  16. 大山崎町「天下分け目の天王山」
  17. 長岡京市「勝竜寺城公園-明智光秀“最期の城”/細川ガラシャ“輿入れの城”」
  18. 京都市「京都のいしぶみデータベース」HU008 明智薮
  19. 公益財団法人滋賀県文化財保護協会「新近江名所圖会 第285回 明智左馬之助湖水渡り伝承の地・大津市打出浜」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1582年の勢力図を見る
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