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高山右近の家紋

摂津高槻城主・キリシタン大名

高山右近

1552年〜1615年

高山右近は、1552年に摂津国豊能郡高山に生まれ、21歳ごろに父飛騨守とともに高槻城主となり、城下に20を超える教会を建てた武将である。1578年、主君筋の荒木村重が織田信長から離反した際は一時攻撃を受けたが降伏して赦免され、引き続き高槻城を任された。1585年の摂津仕置で播磨明石へ移封されて船上城を築いたが、1587年に秀吉が発したバテレン追放令により信仰を理由に改易された。その後は前田利家・利長の客将として金沢に迎えられ、26年にわたり金沢城の修築や高岡城の縄張りなど築城技術で前田家に仕えた。1614年、徳川幕府の禁教令により国外追放となり、長崎からマニラへ送られて翌1615年2月に同地で没した。

出典 高槻市「北摂唯一の近世城郭 高槻城」/豊能町「郷土の偉人 戦国大名 高山右近」/石川県「石川県立美術館『福者認定記念 高山右近』」/金沢市「高山右近自筆書状」

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関連する出来事

7件

1573年

高山右近が高槻城主となる

当事者
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高山右近が父・飛騨守とともに高槻城主となり、城の拡張と城下町整備に着手。20を超える教会建設でキリスト教の拠点とした。

1578年

高山右近が信長方に帰順

当事者
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荒木村重が織田信長から離反した際、信長方の攻撃を受けたが降伏して赦免され、引き続き高槻城主の地位を保った。

1582年

7月2日

山崎の戦い

秀吉方の先鋒
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本能寺の変の11日後、備中から引き返した羽柴秀吉が明智光秀を山崎で破った合戦。光秀の政権は10日あまりで潰え、秀吉が織田家中で抜きん出る契機となった。

1585年

高山右近が播磨明石に転封

当事者
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豊臣秀吉の摂津仕置のもとで高槻から播磨国明石へ移され、船上城の築城と城下町建設に着手した。

1587年

6月

高山右近が改易される

当事者
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豊臣秀吉のバテレン追放令により、キリスト教信仰を放棄しなかった高山右近は明石の領地と大名としての地位を失った。

1588年

高山右近が金沢に移る

当事者
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バテレン追放令による改易後、前田利家の招きで金沢に移り住み、前田家の客将として築城技術を生かして活動した。

1614年

1月17日

高山右近が国外追放となる

当事者
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徳川家康のキリシタン禁教政策により、高山右近は国外追放とされ金沢を去った。その後マニラで没した。

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