INTERACTIVE BATTLE

第二次上田合戦

1600年10月 · 上田城

徳川秀忠軍が真田昌幸・信繁の守る上田城を攻めたが攻略できず、中山道軍の西上が遅れた。

背景

秀吉死後の対立で真田家は昌幸・信繁が反家康側、長男信幸が徳川方に分かれた。徳川秀忠軍は東山道を西へ進む途中、上田城の真田方と対峙した。

結末

昌幸・信繁父子は上田城に籠城して秀忠軍を足止めし、秀忠軍は関ヶ原の主戦場に間に合わなかった。戦後、昌幸・信繁は九度山へ配流され、上田領は徳川方についた信幸に与えられた。

第二次上田合戦 — 上田城

戦況年表

1 1600年9月

秀忠軍が上田へ進む

徳川秀忠の中山道軍は西上の途中で上田へ進み、石田方についた真田昌幸・信繁が上田城を守った。

出典123·確実度:高

2 1600年9月

上田城を攻略できず対陣する

降伏交渉と攻撃を経ても秀忠軍は上田城を攻略できなかった。個々の挑発や奇襲など軍記由来の逸話は、確認できる経過と分けて扱う。

論点

軍記に由来する戦術・逸話の細部には諸説がある。

出典123·確実度:高

3 1600年9月

秀忠軍が上田を離れて西上する

秀忠軍は上田を離れて西へ急いだが、関ヶ原本戦には間に合わなかった。ただし遅参の原因を上田城攻撃だけに限定せず、命令伝達や行程も含めて考える必要がある。

論点

関ヶ原への遅参を上田合戦だけで説明しない。

出典123·確実度:高

歴史的な位置づけ

関ヶ原と別個の地域戦でありながら、東山道軍の移動と全国戦争の時間配分に関わった。上田城は翌1601年までに徳川方によって破却された。

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主な関係人物

徳川方

1名

徳川秀忠

徳川軍を率いた将

東山道を西上する途中、上田城の真田方と戦って足止めされ、関ヶ原の主戦場に間に合わなかった。

出典12·確実度:高

真田氏

2名

真田昌幸

上田城主

信繁とともに籠城して秀忠軍を足止めした。戦後は九度山へ配流された。

出典12·確実度:高


真田信繁

昌幸の子

父とともに上田城に籠城し、秀忠軍を足止めした。戦後は九度山へ配流された。

出典12·確実度:高

参照した資料

  1. 上田市「上田城の歴史」
  2. 上田市「上田城歴史年表」
  3. 上田市「史跡上田城跡」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1600年の勢力図を見る
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