INTERACTIVE BATTLE

江口の戦い

天文18年(1549)3月〜6月 · 摂津国江口

三好長慶が柴島城・榎並城で細川晴賢・三好政長方を破り、江口で政長を討ち取って主導権を握った。

背景

天文18年(1549)3月、中島方面へ向かう三好長慶軍を阻もうとした細川晴賢・三好政長(宗三)方が柴島城に拠って迎え撃ったが落城した。政長方は天文2年(1533)に政長が築いた榎並城へ敗走し、子の正勝に城を託した。

結末

長慶方は難攻不落の榎並城を遠巻きにするにとどめ、政長自身は江口の里へ出陣した。同年6月、十河一存らに攻められて政長は戦死し、正勝は逃亡した。大阪市の資料はこれを「細川惣領家の没落を早めた」と評価する。

戦況年表

1 天文18年3月(1549年3月)

柴島城の戦い

中島方面へ向かう三好長慶軍を阻もうと細川晴賢・三好政長(宗三)方が柴島城に拠ったが、落城した。

細川晴賢

柴島城で迎撃するが落城

三好政長

柴島城で迎撃するが落城

出典15·確実度:高

2 天文18年(1549)、月日不詳

榎並城への敗走

柴島城で敗れた三好政長方は榎並城へ敗走し、子の正勝が守った。長慶方は難攻不落と見て遠巻きにした。

三好政長

榎並城へ敗走

三好正勝

榎並城の守将として留まる

出典235·確実度:高

3 天文18年6月(1549年6月)

江口の戦い本戦

榎並城から江口の里へ出陣した三好政長は、十河一存らに攻められて戦死し、子の正勝は逃亡した。

論点

決着の日付「6月24日」や政長討死の具体的状況(討死か水死か)は民間の記述にとどまり、公的資料は月までの記載にとどまる。

三好政長

江口の里へ出陣し戦死

十河一存

柴島城跡を拠点に江口へ攻め寄せる

出典25·確実度:高

歴史的な位置づけ

江口の戦いにより三好長慶は畿内での主導権を握った。ただし将軍・管領を完全に排除したわけではなく、以後は芥川山城(1553年)・飯盛城(1560年)へと拠点を移しながら政権を運営した。

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主な関係人物

三好氏

2名

三好長慶

総大将

柴島城を落とし、榎並城を包囲。以後畿内での主導権を握った。

出典2·確実度:高


十河一存

長慶の弟、江口攻撃の主力

柴島城跡を拠点に、江口の里へ出陣した三好政長を攻めて戦死させた。

出典2·確実度:高

細川澄元方

3名

細川晴賢

柴島城で迎撃

三好政長とともに柴島城に拠って長慶軍を迎え撃ったが落城した。

出典1·確実度:高


三好政長

柴島城主将、江口で戦死

柴島城で敗れて榎並城へ敗走し、のち江口の里へ出陣して十河一存らに攻められ戦死した。

出典12·確実度:高


三好正勝

政長の子、榎並城の守将

榎並城を託されて守ったが、政長の戦死後に逃亡した。

出典2·確実度:高

データ上の注意

決着の日付「6月24日」や政長討死の具体的状況(討死か水死か)は民間の記述にとどまり、公的資料は「6月」「江口の里に出陣した政長が攻められ戦死」までしか確認できないため、本文は月精度にとどめる。晴元・将軍方の近江退去(政変後の政局)は確認できた資料の範囲では裏付けが取れず、本ページには含めていない。

参照した資料

  1. 大阪市東淀川区「東淀川区の名所・旧跡」(柴島城址)
  2. 大阪市「57.榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承地」
  3. 大阪市城東区「榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承地の碑」
  4. 大阪市「大阪市顕彰史跡」(江口の里)
  5. 城郭マスタ(shiro.geojson)

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

合戦の前後の勢力図

前の年・合戦の年・次の年を並べています。画像を押すと、その年の地図が開きます。

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