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国別データ

紀伊国


年表

  1. 1516年 〜1554年

    畠山稙長・根来衆・高野山・湯河氏・雑賀衆ほか

    諸勢力並立守護畠山氏と寺社・国人勢力が地域ごとに並立
  2. 1555年 〜1559年

    畠山高政・根来衆・雑賀衆・湯河直光ほか

    諸勢力並立守護の畠山氏は、高野山・根来寺・雑賀衆・湯河氏が地域ごとに割拠する紀伊をまとめられなかった。郡ごとの内訳は district_ownership.csv を見る
  3. 1560年 〜1569年

    畠山高政・根来衆・雑賀衆・湯河直春ほか

    諸勢力並立守護の畠山氏は、高野山・根来寺・雑賀衆・湯河氏が地域ごとに割拠する紀伊をまとめられなかった。郡ごとの内訳は district_ownership.csv を見る。1562年の教興寺の戦いで湯河直光が戦死した
  4. 1560年

    7月紀伊・畿内情勢

    三好長慶が畿内支配の再編を進め、紀伊・和泉方面の寺社勢力と交渉を重ねる。

    紀伊・畿内情勢が行われた1560年の勢力図
  5. 1570年 〜1580年

    雑賀孫一・根来衆・湯河直春・堀内氏善ほか

    諸勢力並立畠山氏が河内を失って紀伊での力も衰え、根来・雑賀・高野山・湯河氏らの割拠が続いた。織田にも服さず、決着は1585年の紀州征伐
  6. 1581年

    雑賀孫市・根来衆・湯河直春・堀内氏善ほか

    諸勢力並立雑賀衆・根来衆は織田に服さず自立を保った
  7. 1582年

    雑賀孫市・根来衆・湯河直春・堀内氏善ほか

    諸勢力並立畠山氏が河内を失って紀伊での力も衰え、根来・雑賀・高野山・湯河氏らの割拠が続いた。織田にも服さず、決着は1585年の紀州征伐
  8. 1583年

    雑賀孫市・根来衆・湯河直春・堀内氏善ほか

    諸勢力並立畠山氏が河内を失って紀伊での力も衰え、根来・雑賀・高野山・湯河氏らの割拠が続いた。織田にも服さず、決着は1585年の紀州征伐
  9. 1584年

    雑賀孫市・根来衆・湯河直春・堀内氏善ほか

    諸勢力並立畠山氏が河内を失って紀伊での力も衰え、根来・雑賀・高野山・湯河氏らの割拠が続いた。織田にも服さず、決着は1585年の紀州征伐。翌1585年の紀州征伐で紀伊のほぼ全域が羽柴秀長の下に入る
  10. 1585年

    羽柴秀吉羽柴秀長

    羽柴氏紀州攻め後に羽柴秀長が紀伊を領有
  11. 3月紀州攻め

    羽柴秀吉・秀長軍が根来衆・雑賀衆などを攻め、紀伊国の制圧を進めた。

    紀州攻めが行われた1585年の勢力図
  12. 和歌山城の築城と城代配置

    秀吉の命で紀州平定後、秀長が和歌山城を虎伏山に築かせた。築城奉行は藤堂高虎、完成後の城代は秀長の家臣桑山重晴が務め、紀伊統治の実務を担った。

    和歌山城の築城と城代配置が行われた1585年の勢力図
  13. 藤堂高虎が紀州征伐に従い築城奉行となる

    秀長に従って紀州征伐に加わり、戦功により5,400石加増の1万石となって大名格に達した。同年、秀長が紀伊国主として和歌山城を築くにあたり、高虎はその築城奉行を務めた。

    藤堂高虎が紀州征伐に従い築城奉行となるが行われた1585年の勢力図
  14. 1586年

    豊臣秀長

    豊臣氏和歌山城築城
  15. 1587年

    豊臣秀長

    豊臣氏
  16. 1588年

    豊臣秀長

    豊臣氏
  17. 1589年

    豊臣秀長

    豊臣氏
  18. 1590年

    豊臣秀長

    豊臣氏豊臣秀長の没後、浅野幸長が入るのは1594年である
  19. 1591年 〜1597年

    浅野幸長

    豊臣氏
  20. 1591年

    北条氏直が赦免される

    高野山に追放されていた北条氏直が赦免され、見性斎と称して秀吉に仕え、大名に復帰した。北条家の戦国大名としての再興の可能性が生まれた。

    北条氏直が赦免されるが行われた1591年の勢力図
  21. 1595年

    7月豊臣秀次が高野山で切腹

    関白職を剥奪され高野山へ追放された豊臣秀次が、豊臣秀吉の命により切腹した。

    豊臣秀次が高野山で切腹が行われた1595年の勢力図
  22. 1596年

    桑山一晴が和歌山城主となる

    秀長家の断絶後、桑山重晴の孫・一晴が和歌山城主の地位を継承。以後、重晴も一晴も東軍方として行動することになる。

    桑山一晴が和歌山城主となるが行われた1596年の勢力図
  23. 1598年 〜1599年

    浅野幸長

    豊臣氏
  24. 1600年

    桑山一晴ほか

    徳川方和歌山の桑山一晴が在国し、戦後に浅野幸長が入った/関ヶ原で国を抑えた大名の属した陣営で塗る
  25. 桑山氏が東軍に属し紀伊から退去

    関ヶ原の戦いで桑山氏は東軍に属した。戦後、紀伊国は東軍の戦功により浅野幸長が37万6千石を領して入国し、桑山氏は和歌山城主の地位を失った。

    桑山氏が東軍に属し紀伊から退去が行われた1600年の勢力図
  26. 1601年 〜1602年

    浅野幸長

    徳川政権
  27. 1601年

    真田昌幸・信繁父子が九度山へ配流

    上田城を明け渡した真田昌幸・信繁父子が、紀伊国高野山麓の九度山へ配流された。

    真田昌幸・信繁父子が九度山へ配流が行われた1601年の勢力図
  28. 1603年 〜1616年

    浅野幸長

    徳川政権