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豊臣秀次の家紋

豊臣家 関白(二代)

豊臣秀次

豊臣秀次は、秀吉の姉ともと三好吉房の子として生まれ、秀吉の養子となって豊臣家の後継者に位置づけられた人物である。生年・没年は永禄10年/11年、文禄3年/4年(1595年)などの表記の食い違いがあり確定しない。1585年に近江八幡43万石を与えられて八幡山城主となり、1591年に秀吉の実子鶴松の死を受けて関白職と聚楽第を譲られ、検地の命令や文書発給など政務の中心を担った。1593年に秀吉の実子秀頼が生まれると後継構想は一変し、高野山へ追放されて切腹し、聚楽第は破却され、妻子・縁者も京都三条河原で処刑された。秀次の失脚は、成人の関白中心の継承設計から、幼い秀頼を大名・奉行が支える体制への転換点になった。

出典 国立公文書館「慶長・元和の文化」/近江八幡市「豊臣秀次の思い出」/京都国立博物館「豊臣秀次と瑞泉寺」/村雲御所瑞龍寺門跡「起源・由緒」/名古屋市博物館「豊臣秀次朱印状」

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関連する出来事

6件

1585年

6月

四国征伐

阿波方面の将
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羽柴秀吉が長宗我部元親の四国支配に対して三方面から征討軍を送り、元親を降伏させた戦役。元親は土佐一国へ退き、四国は豊臣政権の国分に組み込まれた。

1590年

3月29日

山中城の戦い

東海道方面軍
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豊臣軍が小田原への進路を守る後北条氏の山中城を攻撃し、半日で落城させた。

4月3日

小田原合戦

東海道方面軍
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豊臣秀吉が小田原へ着陣し、諸将の軍勢で後北条氏の小田原城を包囲した。

1591年

12月

豊臣秀次が関白に就任

関白就任
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豊臣秀吉が甥の秀次へ関白職を譲り、秀次は聚楽第で政務を担うことになった。

1595年

7月

豊臣秀次が高野山で切腹

高野山で切腹
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関白職を剥奪され高野山へ追放された豊臣秀次が、豊臣秀吉の命により切腹した。

7月28日

聚楽第破却命令

旧居・秀次事件で失脚
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豊臣秀次の失脚後、豊臣秀吉が秀次の居所だった聚楽第の破却を命じた。

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