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明応の政変・正覚寺合戦

明応2年(1493)閏4月22日 · 河内国正覚寺城

細川政元が将軍足利義材を廃するクーデターを起こし、正覚寺城を攻め落として畠山政長を自刃に追い込んだ。

背景

畠山政長と畠山義豊(基家)の家督争いが続くなか、政長方に立つ将軍足利義材(義稙)は河内出陣を決めた。これに反対する管領細川政元が、将軍・管領不在の京都で挙兵し、将軍候補の清晃(足利義澄)を擁立した。

結末

閏4月22日、政元方の総攻撃を受け、政長・義材が本陣を置いた河内国正覚寺城(現・大阪市平野区加美正覚寺、旭神社境内)が陥落した。畠山政長は自刃し、足利義材は捕らえられた。大阪市の資料は畠山義豊方の逆襲を敗因として記し、上富田町の資料は細川政元方の総攻撃を敗因として記す。

戦況年表

1 明応2年閏4月22日

正覚寺城陥落――畠山政長の自刃

政元方の総攻撃を受け、正覚寺城に籠る畠山政長・足利義材が敗れた。政長は自刃し、義材は捕らえられた。

論点

政長敗死の直接の原因は資料により異なる。上富田町の資料は細川政元方の総攻撃を、大阪市の資料は畠山義豊方の逆襲を敗因として記す。

畠山政長

正覚寺城で自刃

足利義稙

正覚寺城陥落後に捕縛

出典1234·確実度:高

歴史的な位置づけ

将軍足利義材(義稙)は廃され、政元の擁立した足利義澄が11代将軍となった。以後の将軍権力は細川京兆家の意向に大きく左右されることになった。

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主な関係人物

細川氏

3名

細川政元

管領・挙兵の主導者

将軍・管領が河内出陣で京都を離れた隙に京都で挙兵し、将軍候補の足利義澄(清晃)を擁立した。

出典1·確実度:高


足利義澄

政元に擁立された新将軍候補

細川政元の挙兵によって将軍候補に擁立された。

出典1·確実度:高


畠山義豊

畠山政長と家督を争った対立方

大阪市の資料は政長の敗死を「基家(義豊)の逆襲」と記す。

出典3·確実度:中

畠山氏

2名

畠山政長

管領・河内守護

将軍足利義材とともに河内出陣中に政変が起こり、正覚寺城に本陣を置いたが陥落し自刃した。

出典23·確実度:高


足利義稙

10代将軍

政長方に立って河内出陣中に京都で政変が起こり、正覚寺城陥落後に捕らえられた。

出典1·確実度:高

1493年の他のできごと

データ上の注意

政長敗死の直接の原因は資料により異なる(上富田町は細川政元方の総攻撃、大阪市は畠山義豊方の逆襲と記す)ため、本文は両方の記述を併記し断定しない。政元の挙兵地点、政変後の畿内政局(足利義澄の将軍宣下の日付、畠山義豊方のその後の動き)は確認できた資料の範囲では特定できず、本ページには含めていない。

参照した資料

  1. 上富田町「上富田町文化財教室シリーズ 戦国の争乱と山本氏」
  2. 大阪市「畠山政長(はたけやままさなが)墓所」
  3. 大阪市平野区「畠山政長の墓」
  4. 大阪市平野区「正覚廃寺(東之坊)」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1493年の勢力図を見る
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