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里見実堯が鎌倉へ侵攻

1526年 · 鶴岡八幡宮

安房の里見実堯が鎌倉へ攻め込み、戦火によって鶴岡八幡宮の建物や宝物の多くが焼亡した。

背景

安房の里見氏は房総で勢力を広げ、相模へも進出をうかがっていた。大永6年(1526)、里見実堯は三浦半島に上陸し、北条方の玉縄城に迫った。実堯単独の行動か里見宗家の指揮下かは、確認できた資料からは分からない。

結末

実堯は玉縄城の北条軍と激戦の末、鎌倉市街へ突入して火を放ち、房総へ引き上げた。この戦火で鶴岡八幡宮は炎上し、社殿・堂塔の多くが焼失した。焼失の月日は確認できていない。

里見実堯が鎌倉へ侵攻 — 鶴岡八幡宮

戦況年表

1 1526年

里見実堯、三浦半島に上陸し玉縄城に迫る

安房の里見実堯は三浦半島に上陸し、北条方の玉縄城に迫った。

論点

三浦半島の具体的な上陸地点は、確認した資料では特定できていない。

出典1·確実度:中

2 1526年

北条軍と激闘、鎌倉市街へ突入し鶴岡八幡宮が炎上

里見実堯は北条軍と激闘の末、鎌倉市街へ突入して火を放ち、東国武士の信奉を集めていた鶴岡八幡宮も炎上して社殿・堂塔の多くが焼失した。

出典1·確実度:中

3 1526年

里見実堯、房総へ引き上げる

里見実堯は鎌倉を離れ、房総へ引き上げた。

論点

侵攻を主導したのが実堯個人か里見宗家(当主・里見義豊)かは、確認した資料からは判断できない。

出典1·確実度:中

歴史的な位置づけ

焼失を受け、北条氏綱は相模国守護として鶴岡八幡宮の再建を企図し、享禄年間を経て天文元年(1532)に着工、天文9年(1540)の正遷宮まで工事が続いた。

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主な関係人物

里見氏

1名

里見実堯

安房里見氏

三浦半島に上陸して玉縄城に迫り、北条軍と激闘の末、鎌倉市街へ突入して火を放ち、鶴岡八幡宮を焼いて房総へ引き上げた。単独で動いたか、里見宗家(当主・義豊)の指揮下だったかは、確認できた資料からは特定できない。

出典1·確実度:中

参照した資料

  1. 神奈川県立図書館「かながわの古典籍・古文書 #10 快元僧都記」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1526年の勢力図を見る
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