INTERACTIVE BATTLE

御霊合戦

1467年1月18日 · 上御霊神社周辺

畠山義就が上御霊社の畠山政長を攻撃し、応仁の乱の前哨戦となる。

背景

将軍足利義政の後継をめぐる対立に、管領家畠山氏の家督争い(義就と政長)が絡み、政長を退ける山名宗全と政長を支える細川勝元の対立に発展した。前年の大水害・飢饉による社会不安も背景にあったとされる。

結末

出仕を禁じられ管領を退いた畠山政長は自邸を焼いて上御霊社に布陣したが、畠山義就の奇襲を受けて敗れ、細川邸へ逃れた。上御霊社の社殿なども焼けた。ただし政長の布陣・交戦の日付は資料により正月17日夜とも18日早朝ともされ、確定していない。

御霊合戦 — 上御霊神社周辺

戦況年表

1 1467年1月18日

畠山政長、上御霊社に布陣

管領を退けられ将軍への出仕を禁じられた畠山政長が、自邸を焼いて上御霊社の森に布陣した。

論点

布陣・交戦の日付には資料により差がある。京都市上京区「応仁の大乱」は正月7日の政長失脚と同月18日早朝の義就による奇襲を、京都市「都市史14 応仁・文明の乱」は文正2年正月17日夜の政長布陣と同日夜半の交戦を記す。

出典123·確実度:中

2 1467年1月18日

畠山義就が奇襲、交戦

畠山義就が政長の陣を奇襲し、上御霊社の社殿などを焼いて交戦した。

出典123·確実度:中

3 1467年1月

政長、細川邸へ逃れる

畠山政長は細川勝元邸へ逃れた。この戦いは、細川勝元を総帥とする東軍と山名宗全を総帥とする西軍による応仁・文明の乱の発端となった。

出典123·確実度:中

歴史的な位置づけ

この戦いを発端に、山名宗全を総帥とする西軍と細川勝元を総帥とする東軍の対立が本格化し、11年に及ぶ応仁・文明の乱へと拡大した。

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主な関係人物

東軍(応仁の乱)

2名

畠山政長

管領・出仕を禁じられた将

将軍への出仕を禁じられて管領の地位を失い、自邸を焼いて上御霊社の森に布陣したが、義就方の奇襲を受けて敗れ、細川邸へ逃れた。

出典24·確実度:高


細川勝元

政長を支援した管領家

政長を支援し、敗れた政長軍を自邸に受け入れた。この戦いの後、東軍の総帥となった。自身がこの合戦で交戦したかどうかは、確認できた資料からは特定できない。

出典24·確実度:中

西軍(応仁の乱)

2名

畠山義就

政長を奇襲した将

上御霊社に布陣した政長の陣を奇襲し、社殿などを焼いた。この戦いが応仁・文明の乱の発端となった。

出典24·確実度:高


山名宗全

政長失脚を進言したとされる将

政長失脚の策謀を進言したとされる(京都市上京区の資料に基づく)。この戦いの後、西軍の総帥となった。自身がこの合戦で直接指揮・交戦したかは、確認できた資料からは特定できない。

出典4·確実度:中

参照した資料

  1. 京都市上京区「応仁の大乱」
  2. 京都市「都市史14 応仁・文明の乱」
  3. 京都市「KA030 応仁の乱勃発地」
  4. 京都市上京区役所「応仁の大乱」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1467年の勢力図を見る
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