INTERACTIVE BATTLE
1511年8月 · 船岡山
細川高国・大内義興方が8月24日に船岡山で細川澄元方を破った。将軍・足利義尹は9月1日に京都へ戻り、政権を回復した。
永正4年(1507)の細川政元暗殺後、京兆家の家督は澄元と高国の間で争われた。永正5年(1508)に大内義興・細川高国が足利義尹を奉じて上洛すると、澄元方はたびたび京都奪回を図り、船岡山に城を築いて丹波方面からの入京に備えた。
足利義尹・細川高国・大内義興の連合軍が船岡山を攻め、細川澄元方の城を落とした。澄元は摂津へ敗走し、義尹は京都での地位を保った。合戦の詳しい日付は確認できていない。

細川澄元、船岡山に築城
細川澄元が船岡山に城を築き、丹波から入京しようとする足利義尹・細川高国・大内義興らの軍を迎え撃つ構えを取った。
出典12·確実度:中
足利義尹方連合軍、船岡山城を攻略
足利義尹・細川高国・大内義興らの連合軍が船岡山城を攻め、城は落とされた。
出典12·確実度:中
細川澄元、摂津へ敗走
敗れた細川澄元は摂津国へ敗走し、将軍足利義尹は京都での地位を保った。
論点
合戦の月日(「8月23日」など)は公的機関の資料での裏付けが取れておらず、年(永正8年〈1511〉)にとどめる。
出典12·確実度:中
永正の錯乱以来続いていた京兆家の家督争いのなかで、義尹・高国・義興の体制が京都の主導権を維持したことを示す戦いとなった。
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参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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