INTERACTIVE BATTLE
享禄4年(1531)6月4日〜8日 · 摂津国大物(尼崎)
細川晴元・三好元長方が細川高国・浦上村宗方を摂津で破り、高国は尼崎で捕らえられて自刃した。
大永7年(1527)の桂川原の戦いで京都を追われた細川高国は、播磨の浦上村宗と結んで京都を一時回復していたが、晴元・三好元長方との抗争は続き、享禄4年(1531)6月、両軍は摂津方面で決戦に至った。
6月4日、天王寺・阿倍野から攻撃を開始した三好元長方は高国方を大破し、中島・野里川方面へ追撃した。渡河する高国方には多数の溺死者が出たうえ、戦闘中に後衛の赤松勢が晴元方へ内応し、高国方は総崩れとなった。高国は尼崎へ逃れて潜伏したが捕らえられ、6月8日、大物の広徳寺で自刃した。
高国、捕縛され広徳寺で自刃
総崩れとなった細川高国は尼崎の町屋に逃れて潜伏したが捕らえられ、大物の広徳寺で自刃した。
論点
潜伏先の町屋の屋号(「紺屋」か「京屋」か)は既存ノートでも諸説として扱われ、確定していない。
尼崎で捕らえられ、大物の広徳寺で自刃
出典12·確実度:高
大物崩れによって細川高国が滅亡し、細川晴元・三好元長方が畿内の主導権を得た。ただし翌1532年に元長も一向一揆勢に攻められ自害し、畿内政局は江口の戦い(1549年)まで再編を重ねる。
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データ上の注意
開戦(天王寺・阿倍野)、追撃・敗走(中島・野里川)、後衛の離反の各局面は確認できた資料の範囲では広域地点にとどまり、具体的な地点が特定できないため、地図上の局面には結末(尼崎・大物)のみを加えている。後衛から離反した勢力の個人名は、確認できた出典が「赤松軍の内応」とのみ記し個人を特定していないため、本文でも名指ししない。
参照した資料
本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

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