作者不詳「福島正則像」
尾張清須の大名
1583年の賤ヶ岳合戦で秀吉方の若い家臣として武功を挙げ、のちに尾張清須を基盤とする大名になった人物。加藤嘉明・脇坂安治とともに「賤ヶ岳七本槍」として並べられるが、三人が秀吉政権のもとで同じ「武功派」だったわけではなく、領国も家臣団も船・港との関係も異なる。秀吉死後の政治選択も、賤ヶ岳の武功からではなく、その後に形成された領国、朝鮮での軍役、奉行・軍監による評価から追う必要がある。
出典 長浜城歴史博物館「賤ヶ岳合戦と七本槍」/清須市「清洲城」/福岡市博物館「黒田氏の筑前入国」/愛媛県歴史文化博物館「加藤嘉明宛豊臣秀吉朱印状」/岐阜県博物館「増田長盛・長束正家連署状」/松山市「室町時代から安土・桃山時代」/たつの市「淡路国指出寄帳」/たつの市「脇坂安治・安元関係資料一括」
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4件
1600年
9月2日
小山評定
評定に加わった諸将の一人会津の上杉景勝征伐に向かっていた徳川家康は、小山に在陣中に伏見城からの使者を迎え、石田三成の挙兵を知って諸将を集めた。この軍議で会津攻めは中止となり、諸将は西上して関ヶ原へ向かうことになったと伝わる。
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