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朝倉義景の家紋

越前朝倉氏 当主

朝倉義景

1533年〜1573年

天文2年(1533)生まれ。朝倉孝景(敏景)の長男として16歳で越前朝倉氏の家督を継ぎ、一乗谷を拠点として領国支配を進めた。永禄10年(1567)には京を追われた足利義昭を一乗谷に迎えて元服の儀を執り行い、将軍家との関係を示したが、上洛要請には応じず、のち織田信長と対立することになった。浅井長政と連合して志賀の陣(1570)などで信長方に抗戦。天正元年(1573)8月の刀根坂の戦いで大敗し、一乗谷は焼き払われた。景鏡の裏切りにより大野で自害した。享年41。

出典 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「朝倉氏の歴史」

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関連する出来事

8件

1570年

4月

金ヶ崎の退き口

織田軍を迎撃した朝倉方
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越前方面への進軍中、同盟を結んでいた浅井長政が突如離反。織田信長は朝倉義景軍と挟撃される危機に陥るが、殿軍の奮戦で主力を温存し撤退に成功。

7月30日

姉川の戦い

朝倉方
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近江国姉川流域で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を破る。戦後、北近江の拠点城を押さえ勢力圏を拡大。

10月

志賀の陣

朝倉方
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近江国坂本〜大津周辺で織田軍と浅井・朝倉・本願寺勢が対陣。比叡山延暦寺の仲介も入りつつ膠着し、翌年への火種を残す。

1571年

浅井・朝倉軍の再動員

越前方軍備再編
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北近江・越前方面で浅井長政・朝倉義景が兵力を整え、織田領への圧迫を継続。織田方は近江南部と京都防衛を固める。

1572年

1月

反信長勢力の連携継続

関係人物
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足利義昭、浅井長政、朝倉義景、本願寺勢力らは引き続き信長への対抗姿勢を維持し、畿内周辺では包囲網の政治的・軍事的緊張が続いた。

7月

越前・北近江で浅井・朝倉が持久

朝倉方
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浅井・朝倉両氏は織田方の圧迫に対しつつも、北近江・越前でなお勢力を維持し、信長の畿内・東海両面対応を強いた。

1573年

8月

朝倉義景の滅亡

一乗谷放棄・自害
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織田軍の越前侵攻により朝倉義景は一乗谷を放棄して敗走。家臣の離反も重なり自害し、戦国大名朝倉氏は滅亡した。

8月9日

刀根坂の戦い

朝倉軍
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織田軍が越前へ退く朝倉軍を追撃し大勝。朝倉氏の軍事的基盤を決定的に崩した。

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