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三木合戦

1578年3月 · 三木城

三木城主・別所長治が織田方から離反して毛利方に呼応し、羽柴秀吉による三木城攻囲が始まった。

背景

1577年に信長の命で播磨へ出陣した秀吉に対し、当初織田方だった別所長治は1578年に毛利方へ転じた。三木城を放置すれば秀吉軍は西進できず補給線も脅かされるため、秀吉は付城・土塁による包囲網を築いた。

結末

秀吉軍は付城で城への出入りと補給を断ち、包囲は約1年10か月に及んだ。竹中重治は陣中で1579年に病死し、1580年1月に別所長治が自害して三木城は開城した。

三木合戦 — 三木城

戦況年表

1 1578年3月

三木合戦始まる

三木城主・別所長治が織田方から離反して毛利方に呼応し、羽柴秀吉による三木城攻囲が始まった。

出典123·確実度:中

2 1578年7月

織田信忠が平井山に付城を築く

織田信忠が、秀吉の本陣となる平井山ノ上付城など複数箇所を築いた。付城は三木城を東西約6キロ、南北約5キロの範囲で囲み、推定を含めて約40城に及んだとみられる。

出典1245·確実度:中

3 1579年9月9・10日

平田大村合戦が起こる

三木城へ兵糧を運び入れようとする軍勢と秀吉勢が平田・大村で衝突した。搬入は通らず、城内の窮乏はさらに進む。

出典1234·確実度:中

4 1579年10月17日

秀吉が付城を足して包囲を固める

秀吉が新たに付城を築き、三木城の包囲を固めた。攻め落とすのではなく糧道を断つやり方で、包囲は約1年10か月に及ぶ。のちに「三木の干し殺し」と呼ばれた。

出典1245·確実度:中

5 1580年1月17日

別所長治が切腹し三木城が落ちる

別所長治らが切腹し、三木城は落城した。東播磨で最大の勢力だった三木別所氏は滅び、秀吉の中国攻めは西へ進む。

出典1234·確実度:中

歴史的な位置づけ

付城・土塁で城を締め上げる長期包囲は、秀吉が後の鳥取城・備中高松城でも用いる攻城法の最初の事例とされる。三木周辺の住民も兵粮・労働・被害を引き受けた広域の戦いだった。

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主な関係人物

羽柴氏

4名

羽柴秀吉

総大将

播磨に出陣して三木城を長期包囲し、別所長治を降した。

出典12·確実度:高


竹中重治

秀吉方の家臣

平井山の陣中で1579年6月に病死したと三木市は伝える。

出典26·確実度:高


黒田孝高

秀吉方に協力した播磨の国衆

播磨の地域工作にあたり、秀吉の三木攻めを支えた。

出典1·確実度:中


織田信忠

付城普請の将

秀吉の本陣となった平井山ノ上付城など複数の付城を築いた。

出典14·確実度:高

別所氏

1名

別所長治

三木城主

織田方から離反して毛利方に呼応し、約1年10か月の包囲の末に自害して開城した。

出典12·確実度:高

参照した資料

  1. 三木市「三木合戦とは【豊臣兄弟と三木】」
  2. 三木市「三木城跡及び付城跡・土塁(国指定史跡)」
  3. 三木市「三木合戦の史跡・スポット」
  4. 三木市「平井山ノ上付城跡(国指定史跡)」
  5. 三木市「付城跡群」
  6. 三木市「竹中半兵衛の墓」

本文中の番号は、上の一覧の資料に対応する。確実度は、その記述が出典でどこまで裏づけられているかを示すもので、座標の精度や年代の確度ではない。

1578年の勢力図を見る
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