徳川家康は本願寺法主・准如の兄で、かつて石山合戦で徹底抗戦を主張した教如に京都・烏丸七条の寺地を寄進し、新たな本願寺の建立を許した。これにより本願寺は西本願寺と東本願寺に分立することとなり、家康には巨大教団を二分してその政治力を削ぐ狙いがあったとされる。
5月
村越茂助を奉行として二条城の本格的な造営が始まり、翌年の将軍宣下に向けて主要部の整備が進んだ。
6月
関ヶ原戦役で焼失した伏見城が徳川家康の居城として再建され、畿内支配の拠点となった。
出典 京都市「都市史20 伏見城」
関ヶ原で西軍に属した島津義弘に代わり、島津忠恒(家久)が徳川家康との関係修復にあたり、慶長7年、薩摩・大隅および日向国諸県郡の支配を家康に認められた。
出典 鹿児島県「鹿児島県歴史・美術センター黎明館 常設展示:関ヶ原の戦い」